読書録7 『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎 医学書院

読書録

それっぽい本の情報をどこからともなく引っ張ってくる友人に勧められた本。
自分自身はこういう銭にならないインテリっぽい話はとても好きなのですが、
残念ながら最新情報に疎く友人から手に入れるばかり。
当時、暇と退屈の倫理学で名を馳せていた著者の最新作、ということでおすすめされました。
昔読んだときはふんふんいいながら読んでたのですが、もう全然覚えていないです。。メルカリに出す前にもう一回よも。

しかしあの手の早耳の人はどのような手段で手に入れているのかさっぱり見当つきません。。
だれか師匠みたいな人にくっついて、そこからおススメを提示されるのだろうか。うらやまし。

下記、当時付箋を貼っていた箇所の引用。
P069『このテクストは、実際にとトラクスがどう考えていたかとは無関係に、能動と受動を対立させるパースペクティブからの翻訳、解釈されてきた。そして、そのように翻訳、解釈されるそのたびごとに、能動態と受動態の対立が活性化されてきたのである。本書にとって重要なのはこの事実である』

P181『ところが不思議なことに、自動詞表現と受動詞表現という兄弟関係にある表現を、われわれが現在用いている能動対受動の対立図式にの中に持ち込むや、とたんにこれら二つの表現は、能動態と受動態として対立してしまう。たしかに”I appear”は能動態で、”I am shown”は受動態だからである。この事実は、能動対受動の対立図式がどれほど行為の帰属という観点に取りつかれているのかを実にわかりやすく示すものなのである』

P195『言語は不均衡な体系である。言語は常にさまざまな要求に対応しながら、抑圧と矛盾を抱えつつ運用されている。人の心や社会と同じである。だから、矛盾が甚だしくなれば、抑圧に対する反発が強くなることもある。中動態はあるときから抑圧された。能動態と受動態を対立させるパースペクティブのこそが、この抑圧の体制である。』

P205『「意思が始まりを所有したことがあったためしがない」にも関わらず人はそのような意思を持とうとする。そのとき、いったい何がおこるか?そこにおこるのは「過去の忘却」である』

P251『ここに至って、変状の過程がafficiturという中動態の意味を持った動詞表現で指示されていることの重要性がはっきりしてくる。この表現は変状の過程が、様態をその座として進むことを正確に指ししめしている。』

P256『先に見た通り、スピノザの考える因果性、中動態においてとらえられた因果性の概念においては、原因は結果において自らを表現するのだった。ならば、われわれが自閉的・内向的と呼んだ中動態的な変状の過程も、この因果性によって説明できるはずだ。すなわち、この因果性の概念によるのならば、欲望の結果として現れる行為や思考は、その原因である力としての本質を表現していることになる。』

P283『ヴィアは罪のあるなしを決する前に、彼の決定を可能にする参照の枠組みを規定し、制限しなければならない。彼はそこで、「本質的な」コンテクストよりも「法的な」コンテクストを選ぶことで、それを実行するのだ』

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